NSGカレッジリーグ 第5回志・未来塾

「夢は叶う!!」

講師:小西 忠禮

さて、私は講演の前に皆さんと握手をしました。今日、私はこのような「料理人」の格好をしていますが、皆さんがゲストで私はホストです。


タイトルに夢とありますが、私自身は夢を叶えてきました。これから夢の実現に向けて進んで行く皆さんに、それを伝えたいと思っています。


豊かな人生というのは突然手に入るものではなく、自ら築き上げるものです。今それに気づけなければ豊かな人生は実現できません。人生は連続していますから、結果の100%が自分の責任なのです。


皆さん、今日の講演を機会に、人生に大いなる下絵を描いて挑戦してください。

-小西 忠禮  氏

■少年時代〜高校卒業

講演の様子

私は、父も母も幼い頃に亡くし、兄に育てられました。中学時代は少しでも家計を助けたくて新聞配達に励み、高校時代はバレーボールに熱中しました。この頃、ある先輩の勧めで左右どちらでもボールを打てる練習をしました。とても困難なことでしたが、「誰もやれないことをやるといい」と言われて挑戦しました。今思えば、後に大きな影響を私に与えた教えでした。


卒業後の進路としてバレーボールで大学や企業からの誘いもありましたが、スポーツ選手を取り巻く華やかな世界が性に合わず、サラリーマンになりました。

■サラリーマン時代

当時流行った石原裕次郎に憧れたサラリーマン時代でしたが、仕事が単調で、これからもずっとこんな生活が続くのがいやで、転職を決意しました。そのとき、いっそのこと自分が大好きなことを仕事にしようと思いました。スポーツ選手だったため、食べることはとても好きでしたから、料理人になろうと思ったという単純な話です。


料理学校に入ったのが22歳。周りからは遅いと言われていましたが、私の決意は固かったのです。


入学後に校長先生が「これからは、グローバルの時代になる」と言われたのがとても印象に残っています。また、「フランスのホテルリッツは、世界一でとても素晴らしい」ということも、校長先生から聞きました。その頃、フランスがどんな所かはもちろん、どの辺にあるかさえ知りませんでしたが、「グローバルの時代になるなら海外で活躍したい!フランス料理をやれば、フランスに行ける!」と思いました。


1960年代終わりから1970年代のはじめ。フランスに行くという行為自体が無理だと一般的には思われる時代です。その頃に、私は「パリに行ってホテルリッツで働く」と言っては周りから馬鹿にされていました。


しかし、私はあきらめませんでした。日本調理師専門学校を卒業後、神戸オリエンタルホテルに入社し、希望を実現するために4年間の計画を自分で作ったのです。お金はないから、ホテルで食事をとる!!そのためにも、ホテルで働いている必要があって、その給料は引き出せないようにするために全て定額貯金に入れました。ひたすら貯金だ!!

■夢を持つこと、周囲に言うこと

皆さん、小さい夢なんて持っちゃいけません。小さな夢や目標は、同じことを考えるライバルがたくさんいるからです。それに対して、実現が不可能なくらい大きな夢は、ライバルがいません。皆さん、何かを実現したければ、今日の一歩から始まるのです。


「フランスに行きたい、リッツで働きたい。だからこれを経験したい。」私にはフランスに行くという目標が具体的にあるから、職場での配属にだって要望や希望を総料理長に具体的に言うことができました。生意気だ、無理だと馬鹿にされても、言えたのです。そしてそのうちに、人が私の要望を予想するようになり、その要望をある程度叶えてくれるようになったのです。入社4年半のある日、総料理長から「そろそろ行っていいかな」と言われました。なんともいえない緊張感というか喜びというか、いよいよだなという気持ちでした。

■渡仏にあたり

その頃は、1ドル=360円固定の時代です。飛行機で渡仏するにはお金もかかるので、船で行くしかありません。片道45日の船旅。45時間じゃありませんよ、45日です。また、現地での仕事も決まっていませんし、住む所もありません。だから観光ビザで行くしかなく、当時国外へ持ち出せるお金は500ドルまでと決まっていました。


また、片道の切符ではビザが発行されません。観光して帰ってくる帰りの切符もセットでないといけなかったのです。しかしお金もなく、最終的にフランスで仕事をすることが希望でしたから、領事館に通い詰めて交渉しました。最終的には「日本国に恥をかかせるようなことは、しない」ことを条件として、片道切符でビザを発行してくれました。今思えば、異例のことであり奇跡でした。


人生に待ち受けるどんな扉でも、簡単に開く扉はありません。仮に簡単に開いたとすれば、それはあなたを成長させる節目の扉ではありません。

ディスカッションする学生

■フランスへの決意

さて、フランス語の勉強さえしていない私が、フランスへの旅立ちにあたり、私は自らの胸に誓った10か条を定め、自分の夢の実現に向け、誓いを新たにして生きようと決めたのです。


1)人生に近道はない。

2)たぐり寄せる行動を取る。

3)どんな時も前を向く行動力を持つ。

4)全力で取り組む。

5)何をやるにも舞台は世界だ。

6)凡事徹底。

7)とことん考えて天地自然の理に従う。

8)本物を見続ける。

9)損得ではなく、常に善意で生きる。

10)必ず世のため人のために生きる。

■フランスへ(裏話)

これはあまり話さないことなのですが、神戸からフランスに向けた船は、翌日横浜に寄港しました。そのとき、あまりの寂しさに新幹線で神戸に帰ってしまいました。ところが、このとき家族が「早く船に戻りなさい」と私に言いました。このとき、一泊でもしていたらもうフランスへの夢の実現はなかったでしょう。

ディスカッションする学生

■フランス到着

フランスに着いた時の手持ち金が約半分になっていたので、生き抜くために、毎日バケット1本とミルク1ℓだけで過ごす日々が続きましたが、週に一日だけ違う美味しいものを食べることができる程度でした。ある日、ルーブル美術館近くのレストランのマダムと知り合い、フランス語も十分に話せない私を、最低賃金でしたが雇ってくれました。彼女は命の恩人であり、フランスでの母でした。


それからはマダムのレストランで働きながら、暇をみつけてはホテルリッツに通い、「ここで働きたい」と言い続けました。しかし、フランス人でも申し込み者はたくさんいて、日本人を雇うのは無理だと言われ続けました。


何かを実現するのは知識や技術ではありません。信念です。私は1年半、リッツに通い続けました。レストランで働きながらでしたから、日本に帰れるお金も貯まっていました。それでもずっとダメと言われ続け、今日を最後にして日本に帰ろうと思って訪ねたその日、リッツのディレクターの方が初めて調理場に連れて行ってくれたのです。そしてそこで、日本人(元東京オリンピック選手村の総料理長をされ、当時帝国ホテルから派遣されてきていた総料理長の村上さん)に声をかけられました。


「こんなところに、日本人が何をしにきたのかね?」と訊ねられ、


「リッツで働きたくて、1年半も通ったんですが・・・」と答えると、


「無理だよねぇ。」と言われました。


「そうですね、今日もダメだったら、もう諦めて日本に帰ろうと思って来ました。」


そういう会話を村上さんとしていたら、いつの間にかいなくなっていた総料理長が突然戻ってくるなり

「いつから働きにくる?」


と言うではありませんか!頭の中が真っ白になりました。でも、私にも私の置かれた環境があります。


「村上さんのように日本からお金をもらえる立場ではありません。だから、フランス人と同じように給料を下さい。」と素直にお願いをしました。


「いいよ。ただし最低保証金額だよ!!」


-----長く辛かった人生が、一気にバラ色に変わった瞬間でした。

志・未来塾の写真

■万博(フランス政府派遣による)

渡仏して3年でホテルリッツで働くようになり、およそ1ヶ月のバカンスをもらえるようになったので、たまたま日本で万国博覧会(万博)が開かれるため、これを見に一時帰国しようと思って、周囲に話していました。そんなとき、たまたま万博のフランス館で働くシェフの募集記事が新聞に出ていたらしく、セカンドシェフから知らされました。条件は私にぴったりでしたが、知ったのは締め切り3日前。しかし私は、「まだ3日もある」と考えました。それをルーブル近くのマダムのレストランに報告に行ったら、たまたまそこにいた人が万博の関係者だったようで、その方の紹介でトントン拍子に話が進み、期限の3日目の締切日に万博のフランス館で働くことが決まりました。

■万博終了後

万博の終了後、私はリッツに戻りました。リッツは、ココ・シャネルが定宿として使っていたことでも有名で、シャネルのアパルトマンは道を渡ったすぐ近くにありました。実は、あまり話さないことですが、ココ・シャネルの最後の晩餐は私が作りました。働く女性が動きやすい服というシャネルのポリシーは、シャネル自身が働くことを生き甲斐としていたことから築き上げられたブランド価値です。そんなシャネルは、もうご高齢で、夕食はいつも一皿しか頼まれませんでしたが、その日に限って4皿のオーダーがありました。疑問に思って上司に確認するも、作らざるを得ません。1971年1月10日、彼女が亡くなったのを知ったのは翌朝のことでした。


その後、当時フランス最高峰の三ツ星レストランであった「ポール・ボキューズ」や名だたる三ツ星レストランで働き、さらにその後スイスやノルウェーのレストランで働きました。そろそろ日本へ帰国と周囲と話をしていたところ、大阪のロイヤルホテル(現リーガロイヤルホテル)の副社長からフレンチレストラン「シャンボール」のオープニングシェフとしてオファーが入りました。ここでは立場上、若手を育成することとなり、その頃部下だった人たちは、今は要職について頑張っておられます。さらにその後、神戸のポートピアホテルのフレンチレストラン「アラン・シャペル」で、またホテルオークラ神戸からオファーを受けて、それぞれオープニングシェフとして務めて参りました。ホテルオークラからオファーを頂いた際に、半年だけヨーロッパに研修に行くこととなったのですが、リッツをはじめとする以前の職場で、「ここはあなたの家です」と、とても温かく迎えられたことには、本当に大きな驚きとともに感謝の気持ちでいっぱいでした。


ココ・シャネルから学んだとおり、私は仕事に対して、いつでも必死に取り組みました。今思えば、最初にリッツで給料をもらって働くことになってから、奇跡の連鎖です。それは、私を支えて下さった人達との奇跡の出会いがあったからです。

■メッセージ

私は、いつもホンモノ志向です。ホンモノを追求することで自分がホンモノに近づき自分のブランドが出来上がるのです。

皆さんが限界を超えた豊かな人生を送りたいなら、次の要素が必要です。


1)勇気 2)目標に向けて実行する力 3)正しい志


世の中は、最後には心の正しい人が上に行くように出来ています。


世界的指揮者の佐渡裕さんは「感謝力」が大切だと、よく私に話してくれました。普通のことが足し算で積み上がっているとすると、「感謝力」があればかけ算で人は歩めるのだそうです。佐渡さんも、大変な苦労をして今の地位を築き上げた人です。


例えば、人の嫌がることを「感謝」して自分でやる。真剣にやる。損得勘定を抜きにして、人のために真剣にやる。それは勇気が必要な挑戦かもしれません。そして挑戦しようと決めたときから、恐怖があなたにつきまといます。しかし諦めてはいけません。挑戦し続けることこそ、恐怖に打ち勝つエンジンでもあるのです。

どうか、皆さん。大きな夢を持ち、周囲に宣言しながら真剣に、正しい心で、挑戦し続けてください。そうすれば、あなたの夢は必ず叶います。

今日は、貴重な機会をいただきありがとうございました。

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■編集後記

とにかく度肝を抜かれた。

シェフの衣装を着た講師も初めてなら、講演の前に全ての学生と握手する講師も初めてだ。そして聞かされる経験の数々。こんな経験をして夢を叶えてきた人に、「夢は自分で挑戦して実現して叶えるものだ」と言われて、反論できるはずがない。

一方で、大きな夢なんて描けずに生きてきた筆者からすれば、10代後半で「夢」や「志」という言葉に触れている学生達。彼らにはこれから先の10年後、20年後の自分を想像できるだろうか・・・そして、そこに向けて挑戦の一歩を踏み出せるだろうか・・・

でも、我々大人ができることは、それを手助けすることではない。せいぜい、私はこうだったという経験を聞かせることしかできない。だから、大きな成功をした人や道標を示せる講師を招いて、志・未来塾を開いている。

学生諸君、さあ旅立ちはもうすぐだ。新潟を、日本を、世界を元気にするような大きな夢や志を持って挑戦しようではないか。


中島みゆきが「夢の通り道を僕は歩いている」という曲で、こう書いている。

「月よ照らしておくれ 涙でにじまないで

 僕の身の程じゃなく 夢だけを照らしてよ

 夢の通り道を僕は追ってゆく」


限界の向こう側にある大きな夢を追いかけるには、真っ暗では不安なのだ。

しかし、正しい心で懸命に進もうとするとき、きっと月が道を照らしてくれるのだ。